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【パンデミックとアート: 前編 Art in a pandemic: first part】

「林 智子 虹の再織」展の個展作家である林智子に本展キュレーターの芦田彩葵が現在の状況をどのように捉えているのか、またパンデミックとアートの関係性についてインタビューを行いました。

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①今回の新型コロナイウルスの影響によりパンデミックが発生し、人々の生活や価値観が大転換することが予想されます。どのような価値観の大転換が起こると考えますか。

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世界的にみると、人間が設けた国境では区切れないほど世界がつながっていることを改めて認識する機会になっているのではないでしょうか。

国内では、大都市一極集中の限界を感じる人も増え、働き方も、暮らし方も今まで以上に多様になると思います。また今まで日本で特に強かった「社会は安心安全で、こうあるべきものだ。」という規範みたいなものが崩れるかもしれません。

この危機に際して、何が自分にとって本当に大切で何が過剰だったかに気づくきっかけにもなると思います。

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②今回のパンデミックにおいて、ウイルスとの戦いという意見もあれば、人間が自然に対して行ってきたことへの報いという意見もあります。

自然と人との関係性や人間の自然観、 自然と科学の関係性は変わると思いますか。また人々はどのようにウイルスと向き合っていくべきでしょうか。

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2011年の原発事故の時同様、多くの人は変わらず元の生活に戻るかもしれません。戻れなくても戻ることへ躍起になるかもしれません。

でも今回のことで少なからず、今まで全てが人間中心的に加速しすぎていたと改めて実感する人もいるのではないかと思います。社会の中で安心安全に暮らしていたけれどその社会も見えない小さなウイルスごときに揺るがされる。そもそもこれまでの歴史をみると安心安全が長く続く時期は少なかったのではないかと思います。そう思うとここ最近がむしろ異常だったとも言えるでしょうし、その安心安全を保つために自然に多くの負荷をかけてきたのだと思います。

これまで、その安心安全を守るために科学を応用した科学技術を駆使してきたわけですが、その科学も使う方の人間の動機によっては自然と人間の共存の実現にとって素晴らしい知恵や技術になる。やはり一番大事なのは人間の動機でしょうか。

今回私は科学的な視点にとても救われています。もちろん未知のウイルスなので、データだけでは完全に回避できませんが、冷静に対象を観察することで、手探りでも関わり方をコントロールすることはできそうに思われます。

ですので、多くの方がおっしゃってるように、戦いではなく共存だと考えています。

かなり個人的な話で恐縮ですが、私自身、日本の検査では検出しづらい複雑な食物アレルギーがあり、お医者さんには幼いころからうまく付き合っていきましょうと言われていました。最初は受け入れられず、様々な薬や健康法を試したり、なんども病院を変えては救ってくれる救世主があらわるのを待っていましたが、それは実現せず。。。

一度本当にひどくなった時、一旦あがくのをやめて、自分の身体に耳をすませて微妙な変化を感じ取ることにしたのです。対処するのではなく受け入れて、食事日記をつけて体が反応するものは当分控える。強い反応が出たらお薬で一旦鎮める。

そうすることで、今ではだいぶうまく付き合えるようになってきたように思います。

そんな私の個人的な小さな話と今回のパンデミックとは、あまりつなげにくいかもしれませんが、敵であろうが味方であろうが一度落ち着いて、相手や自分をよく観察して知ることが大事だと思っています。

③本展の導入となるおじい様の日記には、病に倒れた大切な人々に関する記述があります。

私たちは、先人たちが紡いできた歴史や記憶から今回のことについて、学ぶべきことはあると思いますか。

ある場合、どのようなことを学ぶべきでしょうか。

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祖父の日記には、短く生きた人々の記憶が鮮明に綴られていました。それは彼らとの交流の中で得た一つ一つの接点を繋ぎあわせてできた一枚の薄い布のようです。死が今より身近で、今のように写真や動画も容易に撮影できなかった時代、生きた人々の証人となるように一瞬一瞬を大事に心に記憶しているように感じます。

その祖父の人生は多くの変化の時代の中にあり、特に大学で地球物理学を学んだ後は世界中で物理探鉱を行う日本の石油資源開発のパイオニア的な仕事をしていたので、ある意味彼も今回のようなパンデミックの原因の一つである開発の加担者であるとも言えます。でもその技術開発の恩恵の上に私たちの安心安全が成り立っているのだということも大切な事実であり、色々と考えさせられます。

その祖父の日記にはどんな時も自然への愛情と畏怖の思いが綴られていることを考えると、開発が自然に与える影響ということにどこまで意識を持っていたのかはわかりませんが、今もし生きていたら聞いてみたいいことろです。

今回この祖父の日記に関するリサーチの延長でチフスや結核のことを調べていた時、1950代の科学映像に出会い、素晴らしい映像を多数見ることができたのですが、その時は今とは倫理感やコンプライアンスが違っていて、一見目を覆いたくなるような手術のシーンや人体の映像をしっかり使い、動物実験をしている事実も隠さずに撮影されたドキュメンタリー映像になっていました。ワクチンを作るために多くの動物実験が行われていることもその当時は覆い隠すこともなく表現されていて、今のなんというか死や穢れやエロスをあたかも存在しないかのようにふるまう社会とは違うなと感じて興味ぶかかったです。

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④混迷期の現在、アーティストとしてどのようにこの世界に向き合っていますか。

また、パンデミックを経験したことが、自身の制作や表現に変化をあたえると思いますか。

変化があるとすれば、どのような変化だと思いますか。

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もともと私は、すでにそこにある取るに足らない生起しては消えていく儚いものへの関心をもとに制作をしてきたので、今回の与えられた時間で余計に繊細な自然現象や人の心の機微へ心を向けられているようには思います。

これまでも、都市生活とはかけ離れた砂漠や牧草地での暮らしや二度の大震災、そして身近な人の死を経験して、この世界の中での人間の存在の小ささや不確かさを感じ、それゆえにその存在を実感させてくれる親密な関係性への祝福の念を作品に昇華してきたように思うので、今回のことで私自身に大きな変化があるかはわかりませんが、鑑賞者の方々自身の中に上記のようなことへの実感が増すことがあるとすれば、私が持っていた感覚の伝わり方はかわるかもしれません。

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⑤現在、美術館やギャラリー、劇場などの文化施設が休館を余儀なくされ、VRをはじめテクノロジーを使用したオンラインでの展示を発信していますが、今後新たな展示方法や芸術表現、また芸術と科学の関係が促進されると思いますか。

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一つのきっかけや起爆剤にはなると思いますが、それも一つの通過点でしかないように思います。今は必要に迫られたことで、実際の体験の模倣や代替になるような方法が模索されるでしょうし、それ自体は素晴らしい何かを生み出す可能性があることだとは思いますが、私はどこまでいっても人間は身体性を通した経験とその実感が必要になると考えていますので、それをテクノロジーで代替するということではなく、ある意味テクノロジーですでにある感覚的な記憶を誘発する、もしくは全く別の、テクノロジーでしかできないことは何かと考えてみたいですね。

過去の私の作品も、人と人との親密な関係性の構築を前提とした上で、互いに触れられないという状況下において、その記憶を補う意味でのテクノロジーの使用を行っていたので、体験者がフィジカルな原体験を持っているという前提が何よりも大事であり、その記憶や感覚器官を刺激し誘発する体験、もしくはそれによってさらに元の原体験を超越させるような体験を創出できるかどうかが大事かなと思います。

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⑥林さんは、海外での生活も長く経験されていますが、今回のパンデミックは人を介して世界中に拡がりました。

グローバル化時代から自国優先主義へのゆるやかな流れのなかで、今回のパンデミックは世界の関係性やグローバル化といったものに、どのような変化をあたえると思いますか。

先のことはわかりませんが、物理的に今までのように気軽に世界中を移動することはすぐには出来ないでしょうし、ワクチン開発後も抗体証明書・ワクチン摂取証明書などの提出が必要になるかもしれません。

関係性についても差別や偏見などの分断が一部で進んでいるように感じます。またそれとは対照的に同じ境遇を経験したことへの共通感覚も生まれてくるのではないかな?とも思います。いずれにせよ、今後も温暖化の影響もあって自然災害や新たなパンデミックの発生も予想されているので将来的には助け合わなくては生き残れなくなってくるのではないでしょうか。

京都にいると特に感じますが、今まではグローバル化に依存しすぎていたようには思います。これからはグローバル化を完全には閉ざさないまま、地域共同体としての力をつけることが求められるのではないでしょうか。

米中関係は心配ですね。

⑦パンデミック後の世界において、芸術、そしてアーティストの果たす役割は変わると思いますか。

あるいは果たすべき役割があるとすれば、どのようなものでしょうか。

このパンデミック自体が、ある意味不確かな社会の外の世界を垣間見せ、価値観の変容を招いているという点で、芸術の役割を果たしているとも思います。アーティストの役割としては、今回人との距離を取らざるおえないという特殊な状況を生み出したことで移動が制限され、インターネットを介したコミュニケーションが盛んになっているので、今まで以上に身体的な感覚や感受性の回復を図る作品や想像力を刺激する作品が大事になってくるのではないかと考えます。

また同時に、家族や仲間と同居している人は今回のことで今までよりも物理的な接触や関わりが増えているでしょうし、良いことも悪いことも含めて今後人と人との関係性にどんな変化が生まれるのかは興味深いです。

私が考えるアーティストの役割の一つとは、普段我々が現代社会で生きていく上でブロックしなければならない人間が原始的に持っている感性や直観、そして言語以前にある情動に対する敏感さを持って表現を行っていくことで、鑑賞者の人間的な感受性の回復を生むことや新たな感覚の解放を招くことではないかと思います。

以前読んだ本に書いてあったのですが、普段我々が気づかずに蔑しているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを古い漢語では「祝」と呼ぶそうです。私も、この社会の中で生きていると見えなくなってしまうような儚い現象や心の機微に触れ、不確かなこの世界にともに存在していることへの祝を届けれる存在でありたいと思います。

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インタヴュー後記に続きます。